長崎の出島はなぜ扇の形をしているのか。ずっと疑問でした。
出島とは
「出島」とは、長崎にある人工の島で、外国文化の流入を規制していた江戸時代においては、この出島を拠点として、当初はポルトガル人の収容先として、その後は、一元的にオランダ人を駐留させながら、統制した状態で貿易を行っていました。
その後、開国するまで218年間、出島は、日本で唯一、オランダなどの西洋に対して開かれた場所として、日本の近代化に大きな役割を果たしました。
- 1636年、埋め立て完了
- ポルトガル人の収容先(キリスト教の禁止徹底とポルトガル貿易の統制)
- 1639年、ポルトガル船の来航禁止決定
- 1641年、オランダ商館を平戸から出島に移設、一部を除き、オランダ人は出島のみに駐留することとされる
- 1855年、日蘭和親条約締結に伴い、オランダ人は長崎市街への出入り自由に
- 1856年、出島開放令
- 1859年、オランダ商館閉鎖
出島はなぜ扇形なのか?
ところで出島といえば、以下のような形です。
もっとデフォルメすると、以下のような感じです。
扇の形をしています。
なぜ扇の形をしているのか。ずっと疑問でした。
調べてみると、色々な理由があることが分かりました。
説1:徳川家光の指示
長崎町人の代表が徳川家光から出島を造るよう指示を受けて参上した際、どのような形でという質問に対し、家光は、おもむろに自らの扇を広げたという話が残っているそうです。
シーボルトの著書「日本」にも、家光が扇を見本として示したという記述が残っているそうです。
説2:もともとの砂州の形が弧形だった
出島の土台となった場所としてもともと中島川の河口に土砂が堆積していた箇所があり、その土台となった箇所がもともと弧形であったから、という説です。
説3:波のうねりの影響を少なくするため
海側の岸壁を弧状にすることで、波のうねりの影響を少なくしようとしたから、という説です。
説4:出島の対岸と形を合わせた
出島の対岸(江戸町)がもともと扇形にカーブしていたので、それに形を合わせた、という説です。
※これはどちらかというと、出島の陸地側の由来になりますね、、
かつての外国文化の窓口として
説1は俗説のようなのですが、シーボルトの著書に記述があるので、信憑性は高いと言われています。
家光が雅な思いつきで言ったというよりも、もともとの工事担当者が説2~4を説明した後で、自然な流れで”結局は、例えれば扇の形になる”というような意味で言ったのではないかという気がします、、
「出島」といえば、全国的にも、国指定史跡として、日本にとって歴史的な重要な地として知られています。
面積は3,969坪(約1.5ヘクタール)で、実際に見てみると、そんなに広い土地ではなく、明治以降は周囲の埋め立てに伴い、現在はどちらかといえば町中に突如出現するという感じです。
1996年からは長崎市により、出島復元整備事業計画が進められています。
出島を通るたびに、ここにかつてオランダ人が駐留していて、江戸時代はここから西洋からの文化が日本に発信されていっていたのかと思うと、歴史好きな自分にはなんとも感慨深く感じられます。