会話の途中の間や沈黙を受け入れることができるようになると、より相手のことを知ることができるかもしれません。
ケイト・マーフィ著・篠田真貴子監訳、松丸さとみ訳「LISTEN」(日経BP)を読んで考えたこと。
話さなくとも会話は続く
会話のなかの間や沈黙を、早く埋めようとしてしまうと、見えるものも見えなくなってしまう可能性があります。
なぜなら、間や沈黙は、相手がうまく言葉にできない何かを伝えようとしているかもしれないからです。
それを埋めようと意味のない言葉で紡いでしまうと、せっかく言葉にしようとしているものを押しつぶしてしまったり、本当の課題が浮かび上がってくるのをかき消してしまったりするかもしれないのです。
間や沈黙が何を明らかにしているか注意を払うことができれば、必ずしも自分が言葉を発さなくとも、会話は続いていくものです。
相手に考えをまとめるための時間と余白を確保することで、相手の深い部分を知ることができたり、価値ある真の情報を得ることができたりするかもしれないのです。
いわば、沈黙は「可能性の詰まったもの」であるといえます。
間や沈黙は居心地が悪く感じさせる
親しかったり信頼している人同士であれば、間や沈黙は気にならないものです。
しかしながら、そうでない相手の場合においては、間や沈黙はどこか居心地の悪さを感じさせるところがあります。
それは、沈黙は、相手が不満や排斥の意思表明をしているように感じてしまい、落ち着かなくなるからといわれているようです。
逆にいえば、間や沈黙があっても落ち着いていられるというのは、安定した人間関係であること証左ともいえますし、あるいは、目上であったり自分の立場に安心していられるような状況であると考えられます。
口先だけでは人間関係を得ることができない
昨今、自分の売り込むことがもてはやされているにしろ、口先だけがうまくても、安定した人間関係を得ることができないということは自明のことです。
間や沈黙を無理やり口先だけの言葉で埋めようとするのは、逆に、言葉でできた心の壁を作るがごとくともいえます。
会話の間や沈黙の意味に注意を払うことにより、相手からより置くの情報を引き出すことができ、いつもより相手に対する深い洞察や理解が得られる場合も多いと考えられます。