自分に持っていないものを他人が持っているときの人の反応は様々です。
尊敬する気持ちを持つこともあれば、何も感じないときもあれば、羨ましいと思うときがあります。その差はどこにあるのか。
河合隼雄「こころの処方箋」(新潮社)を読んで学んだこと。
自分に持っていないものを他人が持っているとき
「自分に持っていないものを他人が持っているとき」の反応、様々です。
尊敬の気持ちが生まれるとき。何も感じないとき。羨ましい気持ちが生まれるとき。
不思議なもので、「自分に持っていないものを他人が持っているとき」というシチュエーションはよくあるにもかかわらず、そこから生まれる自分の心の反応は様々なのです。
”羨ましい”の奥にあるもの
厄介なのは、”羨ましい”という気持ちが生まれたときです。
様々な葛藤が生まれます。
そのように思ってはいけないのではないかと自分を責めたり、落ち込んで必要以上に自分を卑下したり、逆に、その人を責めたり。
「自分に持っていないものを他人が持っているとき」という一つの事象に対して、尊敬・無関心・羨望と別々の反応が生じるその分かれ道はどこにあるのか。
河合隼雄「こころの処方箋」(新潮社)での河合さんの話は興味深いものでした。
「自分に持っていないものを他人が持っているとき」に、さらにもう一つ「何か」が掛け合わさることで、結果としての様々な反応に分かれると考えられ、それが「羨望」である場合には、その「何か」とは「その人の心のなかの何らかの未開発の可能性」が考えられるというものでした。
腰を据えてみる
自分の心のなかで、「何らかの未開発の部分」というと、理由があって未開発になっているはずです。
今まで開発する必要がなかった部分。
必要がないと確信が持てていれば、その人を尊敬したり、その人に無関心になったりするのでしょう。
しかし、どこかしらで必要と分かっていて、向き合うことに根気や困難が伴うと感じているとき、それを持っている人を羨ましく感じる、ということ。
羨ましいという気持ちが芽生えるとき、それは、「自分のなかで開発しなければならないと感じている部分」を刺激しているシグナルなのだと考えてみると、心のモヤモヤに左右されずに済むのかもしれません。