”長いお説教”は、長さの割に効果がないと言われて久しいですが、なくなることもありませんが、なぜなのか?
河合隼雄「こころの処方箋」(新潮社)を読んで学んだこと。
”お説教”はなぜ長くなるのか
いわゆる”お説教”は、長さの割に効果がないことがほとんどです。
聞いている方にほとんど届いておらず、「いつ終わるのだろう」くらいにしか思われていないことが多いものです。
一方で、長くなく、端的に焦点の絞られた”お説教”であれば、分かりやすく、相手にも伝わりやすい場合も多いものです。
(むしろそれは、お説教ではなく、有益な指摘やアドバイスともいえるのかもしれませんが、、)
しかし、随分と昔から、”長いお説教”には効果がないと分かっていつつも、なくなることがありません。
それはなぜなのか。
河合隼雄「こころの処方箋」(新潮社)のなかで、河合さんは、以下のような効用があるからでは、とのことでした。
- 話す側が、”100%正しいこと”を語るうちに、自分自身も正しく高尚な人間に思えてきて、自己陶酔してしまう
- 話す側が、普段相手に色々と我慢して気を遣っていることでフラストレーションが溜まっており、何かのきっかけに噴き出してしまうことで、精神衛生を保っている
つまり、聞く側に効用があるのではなく、話す側に効用があるため、”長いお説教”はなくならない、というものです。
これはとても目から鱗でした。
このあたり、話す側も人間で精神衛生があり、聞く側も人間で精神衛生があるのだから、という集団のあうんの呼吸(集団の雰囲気のアヤ)が働いている場合においては、聞く側も、話す側の精神衛生のために協力していると割り切って聞いている場合もあります。
これもなんとなくあり得そうでよく分かります。
これまで我慢をしてきてくれていたことがなんとなく分かっていて、いざ事が起こったときには、そのお説教が長引くことに対しては、それもそうだよな、などと受け入れていることもあり得るからです。
(学生時代の先生との関係で思い当たることも、、、)
効用を知っていると、自分のことが分かる
このように、”長いお説教”は効果がないのになくならないことのメカニズムが分かっていると、違ったように考えることもできます。
特に、上長・目上の立場として、部下・目下へ、効果がないにもかかわらず、ついつい長くお説教してしまいがちなときもあります。
そのようなときは、自己陶酔することなく(そもそも言っていることが自分自身がきちんと遵守できているのかの自省含め)、自分自身の精神衛生の状態を見直してみる機会なのかもしれません。
それでもなかなか自分の精神衛生を完璧にコントロールすることなどできないのですから、気をつけつつも、たまに長くお説教してしまうになるときは、自分の精神衛生を保つためにしてしまっていることだと自覚し、相手にも迷惑かけている、と思うようにしておくと、なんとなく色々とよい方に向かうような気もします。
派手さに惑わされないことも大事
長いお説教にかかわらず、頭ごなしに怒られる、意見をいつも否定され詰められる、といったことは、自分自身が受けてきた環境であったりもします。
効果がないといわれているにもかかわらず、その環境のなかで人が育ってきているとしたら、上記のようなインパクトある派手なテクニックの裏で、そのときの上長は、様々な効果のある対応(指摘したあとに丁寧なフォローを入れる、ときにじっくり時間を取って話を聴いている、一緒になって考えている)がなされていることも多いものです。
自分が受けてきたからということでのみ派手な部分だけを真似ているのであれば、いざ振り返ってみると、その裏では様々なフォロー環境があったのではないか、と考え直してみるのもよさそうです。