AIに頼んだ結果が微妙にずれている。社内のデータをどこまで渡していいか判断に迷う。便利になったはずなのに、確認の手間が前と変わらない。この「ちょっと噛み合わない感じ」の正体とその解決のヒントが意外な場所にあること、もっと言えば、長崎の港にずっと昔から置かれていた一つの島にあることにちなんで考えてみます。
AIに「指示する」だけでは届かなくなってきた経理の現場
最初に、いま経理の現場で起きている小さな違和感の正体を整理してみます。
プロンプトを磨くだけでは越えられない壁
AI活用が一般に広がり始めて数年。
最初の頃に話題の中心になっていたのは「いかに上手く指示を出すか」という工夫でした。
役割を与え、出力形式を指定し、具体例を見せる。
こうした技術はプロンプトエンジニアリングと呼ばれ、いまも基礎として大切な要素です。
ところが、経理の現場で本気でAIを活用しようとすると、すぐにある壁にぶつかります。
「この請求書を仕訳して」と頼んでも、自社の勘定科目体系を知らないAIは、当たり障りのない一般的な仕訳しか返してくれません。
「うちでは消耗品費は10万円未満で、それ以上は工具器具備品にしている」と毎回伝えるのは、現実的ではありません。
指示の言葉をどれだけ磨いても、AIが「自社の文脈」を知らなければ、本当に使える成果は返ってきません。
コンテキストを渡す段階の到来
そこで広がってきたのが、コンテキストエンジニアリングという考え方です。
日本語にすると、「文脈設計」といったところでしょうか。
AIに事前に背景情報を渡しておく技術と言えます。
経理の現場に置き換えるならば、勘定科目の運用ルール・過去の仕訳パターン・社内規程・取引先ごとの処理方針などを整理してAIに渡しておくという発想です。
「資料を渡してから指示する」という二段構えにすることで、出力の精度は格段に上がります。
これは多くの企業で、すでに実践が始まっています。
けれど、ここでもまた新しい問題が見え始めました。
「使う人」から「整える人」へ重心が動いている
コンテキストを丁寧に渡しても、AIが思った通りに動かない。
前回はうまくいったのに、今回は頓珍漢な答えが返ってくる。
チェックの手間が結局減らない。
問題は、「指示の出し方」や「資料の渡し方」だけにあるのではありません。
AIが安定して成果を出すためには、その周りにある仕組み全体、つまり業務フロー、データの整え方、チェックのルール、修正の経路といった、一段大きな枠組みを設計する必要が出てきたのです。
ここから先に求められるのは、AIを「使う人」であることを超えて、AIを含む業務環境全体を「整える人」へと立ち位置を移していくこと。
これがいま、静かに、しかし確実に起きている重心の移動であるといえます。
ハーネスエンジニアリングという新しい設計思想
前章で見えてきた「整える」という発想を、もう少し正面から捉え直してみます。
馬具としてのハーネス
ハーネス(harness)はもともと馬具を指す英単語です。
手綱、鞍、首輪、それらを総称した装具のセット。
馬という存在に対して、進む方向を示し、暴走を抑え、人と一緒に走れるように整えるための道具を意味します。
AIモデルを優秀な馬にたとえるなら、ハーネスはその馬を望ましい方向に走らせるための装具一式。
馬がどれほど速く走れても、手綱がなければゴールには届きません。
馬を変えても、装具がなければ結局同じこと。
馬の能力ではなく、装具の設計が成果を決める。
そんな逆説的な真実が、AI活用の現場で改めて見えてきました。
ハーネスエンジニアリングとは、AIモデルそのものを賢くする話ではなく、AIが安定して働ける環境や仕組み全体を設計していく考え方です。
プロンプトもコンテキストもハーネスの一部
ハーネスエンジニアリングは、プロンプトやコンテキストを置き換える概念ではありません。
むしろ、それらを内側に含む大きな枠組みです。
整理すると、プロンプト(指示)はコンテキスト(文脈)の一部であり、コンテキストはハーネス(環境全体)の一部、という関係になっています。
指示の言葉、渡す情報、それらを束ねる業務環境とルール。
三つは別々の技術ではなく、一つの体系の中の異なる階層です。
この見方を持つと、自分が普段どの階層で仕事をしているかを客観的に確認できます。
指示の工夫だけで止まっているのか、文脈の整備まで進んでいるのか、環境全体を設計する側に回っているのか。
階段の段差が、はっきりと見えてきます。
なぜ「環境設計」が成果を決めるのか
ハーネスエンジニアリングが大事だとされる背景には、もう一つ重要な指摘があります。
AIは、組織の強みを伸ばすと同時に、弱いワークフローや曖昧な運用も増幅する、ということです。
これは経理の現場でこそ実感しやすい話だと思います。
仕訳ルールが属人化している会社にAIを入れると、属人的な仕訳が高速で量産されるだけ。請求書の保存先がバラバラな会社にAI-OCR(紙の文字をデータ化する技術)を導入しても、結局どこに何があるか分からない状態は変わりません。
土台が整っていないところにAIを乗せても、不整地を高速で走らせるようなもの。
先に道を整える、あるいは走り方を整える。
その設計思想がハーネスエンジニアリングという言葉に込められているのだと思います。
長崎・出島が教えてくれる「分けて、つなぐ」設計の知恵
ハーネスという発想を別の角度から照らしてみると、実は日本の歴史の中にも、これとそっくりな設計思想が息づいていたことに気づきます。
場所は長崎、その港の一角に作られた人工島の話です。
鎖国の中で機能した唯一の窓口
出島は、江戸時代の鎖国の中で約二百年にわたり、日本と海外をつなぐほぼ唯一の窓口として機能した人工島です。
長崎港の一角に扇形の島を築き、そこにオランダ商館を置き、外国人の出入りも、物資の流れも、情報のやり取りも、すべてこの限られた空間に集約しました。
注目したいのは、当時の幕府が選んだ姿勢です。
完全に国を閉ざすのでもなく、完全に開くのでもない。
両極端の間に、第三の選択肢として「制限された接点を一つだけ作る」という発想を持ち込んだのです。
外の世界と関わらなければ、新しい知識も技術も入ってこない。
けれど無制限に交流すれば、内側の秩序が崩れる。
この相反する要求を両立させるために生まれたのが、出島という発想でした。
ルールがあるから自由が成立する
出島の中では、誰が入れるか、何を持ち込めるか、誰と話していいか、文書はどう扱うか、すべてが細かく定められていました。
一見すると窮屈に見えるかもしれません。
けれど、このルールがあったからこそ、出島は二百年もの間、その機能と存在感を保ち続けることができたのです。
ルールがなければ、不安が先に立ち、関係そのものが続かなかったでしょう。
明確な境界線があるからこそ、その内側で安心して交流が成り立つ。
これは制約と自由が表裏の関係にあることを示す、見事な実例だと思います。
出島は単なる隔離施設ではありませんでした。
陸地から橋一本で隔てられているけれど、その橋を通じて確実に知と物が流通する。
完全に分離すれば孤立になり、完全に一体化すれば混在になる。
その間にある「分けながら、つなぐ」という第三の状態を、物理的な構造物として具現化したのが出島だであったといえます。
出島はハーネスそのものだった
ここで気づくのは、出島という特殊な人工島が、ハーネスエンジニアリングの考え方そのものだということです。
馬具としてのハーネスは、馬の力を活かしながら、その動きを望ましい方向に導く装具でした。
出島も同じで、海外との交流という強力な力を活かしながら、その流れを望ましい方向に導く装置でした。
両者に共通しているのは、対象の力を否定せず、設計された枠の中で発揮させるという思想です。
経理の現場でも、AIの能力を否定する必要はありません。
むしろ思い切り活かしたい。
けれど、ただ放っておけば、その力は組織の弱い部分にも作用して混乱を生みます。
だから、ハーネスとしての出島が要る。
能力を引き出しつつ、暴走を防ぎ、安全に走らせる装置が要るのです。
二百年前の長崎の港で完成していた設計思想が、いまAI活用の最前線で再発見されているとすれば、これほど面白い符合もないなとも妄想します。
経理にとっての「出島」をどう作るか
実務に近づけた話をしてみます。
出島というと壮大な土木工事を想像してしまうかもしれませんが、最初の出島は驚くほど小さくて構いません。
まずは橋を一本だけ架けてみる
最初にやることは、AIと業務の間に何本の橋を架けるかを決めることです。
一気に何本も架けようとすると、管理しきれません。
最初は1本で十分でしょう。
たとえば「月次レポートの草案づくり」だけにAIを使う。「経費の精算チェック」だけに使う。「議事録の要約」だけに使う。
一つの業務に絞って、そこにだけ橋を架けてみる。
橋を絞ることで、その橋の使い方を磨き込めます。
広く浅く使うより、狭く深く使う方が、出島の効果は出やすくなります。
一つの橋が安定して機能するようになってから、次の橋を架ける。
この順番を守ることが、結果として一番早道になりそうです。
持ち込めるもの、持ち込めないものを言葉にする
橋が決まったら、その橋を通じて何を持ち込み、何を持ち込まないかを文書化します。
これがガードレール(境界線のルール)と呼ばれる、ハーネス設計の重要な一部です。
たとえば、AIに資料を渡すときは「個人名と取引先名は伏せる」と決める。「金額は丸めて単位を変える」と決める。「機密性の高い数字を含む資料は渡さない」と決める。
逆に、AIから返ってきたものをどう扱うかも決めておきます。
「自動的に確定処理にしない、必ず人間が承認する」「数字の根拠は元データと突き合わせる」「不自然な結果が出たら必ず疑う」。
こうしたルールが言葉になっていれば、誰がその業務を担当しても、出島は出島として機能します。
属人化を防ぐ効果も大きく、これだけで業務全体の安定性が変わってきます。
データの整え方が出島の質を決める
出島の質を決める最大の要素は、実は橋でもルールでもなく、橋を通って行き来するデータそのものの質です。
請求書のファイル名がバラバラ、勘定科目の使い方が日によって違う、補助科目が形骸化している、取引先マスターが古いまま放置されている。
こうした状態でAIに何かを頼んでも、まともな結果は返ってこないものです。
逆に、データが整然と整理されている組織では、AIは驚くほど自然に働きます。
日々の経理処理を「未来のAI活用のための土台づくり」と捉え直すと、地道なデータ整備の意味も変わってきます。
そんな感覚で日常業務を見直すと、AI時代に対応する組織が静かに育っていきます。
修正の経路を組み込んでおく
設計には、もう一つ忘れてはならない要素があります。
それは、間違いが起きたときの修正経路です。
AIは便利ですが、確実ではありません。
出した結果が間違っていることもあります。
そのとき、どう気づき、どう直し、どう次に活かすか。
この経路を最初から組み込んでおくことが、出島を運用可能なものにします。
出島の歴史でも、不正やトラブルが起きるたびにルールが追加され、運用が改善されてきました。
完璧な設計を最初から目指す必要はなく、走らせながら磨いていく。
検証と改善のループを内蔵した出島こそが、長く機能する出島です。
「設計できる経理」が描くこれからのキャリア
学ぶ順番には意味がある
ハーネスエンジニアリングが提唱されている技術の世界でも、いきなりハーネスから入るのではなく、プロンプト、コンテキスト、ハーネスの順で身につけていくことが推奨されています。
最初は、AIに上手く指示を出せるようになる。
次に、自社の文脈をAIに渡せるようになる。
そして、AIを含む業務環境全体を設計できるようになる。
各段階で身につく力は違いますが、前の段階が土台になります。
いきなり大きな話に飛ばずに、足元から順に広げていくのが結果として早道になりそうです。
設計者に必要な三つの視点
設計する側に立つときに、特に大事だと思える視点が三つあります。
全体を俯瞰する視点
自分の担当範囲だけでなく、その前後の工程、関係する他部署、社外の取引先まで含めた流れを見渡す目です。
出島も、島の中だけで完結する装置ではなく、長崎の港全体、日本全国、そして遥かオランダまでつながる流通の中の一点として機能していました。
点ではなく網として業務を捉える視点が要ります。
抽象化する視点
日々の個別案件の処理を、「こういうパターンの取引はこう処理する」というルールに昇華させる力です。
一つ一つの仕事を素材として扱い、再現性のある仕組みに仕立てていく感覚と言えるかもしれません。
検証する視点
設計した仕組みが本当に機能しているか、想定外のことが起きていないかを、定期的に確認する目です。
設計は一度作って終わりではなく、走らせながら磨いていくもの。
経営者から見た「設計できる経理」の価値
最後に、設計する経理が、経営者からどう見えているか。
経営者にとって、毎月の数字を正確に出してくれる経理はもちろんありがたい存在です。
けれど、それだけならAIに任せれば済む時代になりつつあります。
経営者がいま本当に欲しいのは、数字を出す仕組みそのものを設計し、改善し、次の打ち手につなげてくれる人。
資金繰りの構造を見抜き、業務の流れを最適化し、AIや外部ツールを使いこなして、組織全体の動きを軽くしてくれる人です。
つまり「設計できる経理」は、これからの経営者にとっての右腕になり得る存在。
仕事を奪われる側ではなく、仕事を生み出す側に回れるポジションが、目の前に開かれているのだと思います。
出島の先に開く、これからのキャリア
経理という仕事は、たしかに変わっていきます。
自身で処理をしたり、AIに指示の言葉を磨くだけの段階は、少しずつ過ぎつつあります。
しかしながら、それは終わりではなく、もっと面白くなる始まり。
ハーネスを設計するという発想を一つ手に入れただけで、目の前の業務が少し違って見えてきます。
出島が二百年機能し続けたのは、外と内をどうつなぐかを真剣に考え続けた人たちがいたからです。
鎖国という強い制約の中で、どうすれば交流の火を絶やさずにいられるかを設計した先人たちの仕事は、いまも長崎の港に静かに残っています。
AI時代の経理にも、同じ問いが投げかけられています。
便利な道具をただ使うのではなく、その道具と業務をどうつなぐか、どこまでつなぎ、どこを切り離すか、誰がどう関わるか。問いに答え続ける人が、これからのキャリアを開いていくだろうと考えられます。
まずは小さな橋を架け、ルールを言葉にし、データを整える。
それが、最初の出島になり、かつ、新しいキャリアの出発点になります。
