「効率」と「効果」のバランスを考える

まずもって「効率」と「効果」は異なります。重要なのはバランスだろうと思います。

作間信司「一倉定の社長学」(プレジデント社)を参考として。

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「効果」は、全身で理解し、全身でイメージできるかによっている

「効率」と「効果」は意味の異なるものです。

重なる部分もあり、重ならない部分もあります。そして、その度合いはその人その人の感性や経験によって異なるのだろうと思います。

「効果」に着目すれば、最も効果のある状態とは、例えば、経営数字でいえば、漢字・数字を見ただけでそのときの心情や状況が克明にイメージでき、そのなかで”これまでどのようなことがあり、この先どのように行動していくべきか”をより正確に考えることができるかだと思われます。

ただ、それができるようになろうと思うと、”ただ分かる”ではダメなことに気づかされます。

例えば、経理として数字が作れても、それが経営にとってどのような意味を持ち、どのような経営判断をした方がよいのかということまで理解していなければ意味がないものです。

”頭でなんとなく分かっている”のではなく、”頭を使い、手を動かし、ときに声に出して口や耳で理解していくことで、仕組みを理解し、各数字の関連性を理解する”ことができてはじめて、上記のような全身でのイメージを持てるようになるのだろうと思います。

例えば、人によっては、PCで入力するよりも手書きの方が、「これでよかったかな」「今度どうしていったらいいかな」「これは大丈夫だったかな」「待てよ、ここがもしや盲点になっているのでは」と、手書きしているほんの少しの間に、縦横無尽に頭を動かしながら実に効果的な考えを巡らせている場合もありえるのです。

そうして身につけたものには、それがただの数字であっても、おのずと「愛着」が湧くようになってきます。

それは、その数字の奥にあるすべての状況・感情を、全身の感覚でもってイメージできるようになるからだろうと思います。

「効率」が目的化され、「効果」が犠牲になっては意味がない

「効率」というと、ともすると、上記とは逆に位置することになります。

できるだけ手や体は動かさず、手間をかけないことこそが効率的であるという誤解があります。

例えば、それを何らかのシステムに頼るとしたら、仕組み・構造・関連性といった理解をそのシステムに依存・盲信してしまうことにも繋がり、いざそのシステムに誤りがあったとしても、何ら気づくことすらできなくなります。できたつもりになってしまいます。

「効率」を目的化してしまうと、犠牲になった「効果」に気づくことすらできなくなる可能性があります。

誤った「効率化」によって、「効果」が低減・消失しては、何の意味もないものです。

バランス・コストパフォーマンスで考える

あくまで「効率」は手段であって、目的は「効果」の最大化であるはずです。

では、「効率化」などはすべきでなく、すべてにおいて手間をかけるべきなのかというと、それも違います。

大切な観点は「効果」の最大化であるはずなので、「効果」が最大化、少なくとも維持できるかどうか?という視点のもとに、効率性を導入するかどうか決めればよいのだろうと思います。

そして、それは、その人その人の感性や経験によって異なるのだろうと思います。

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