相手のためになると信じて、行動するのであれば、そのよい部分しか見ないのではなく、相手の全体の状況にくまなく目を配り、どこか少しでも歪みがでていないか確認するよう心がけています。
河合隼雄「こころの処方箋」(新潮社)を読んで学んだこと。
善は微に入り細にわたって
「善は微に入り細にわたって行わねばならない」という言葉は、河合隼雄「こころの処方箋」(新潮社)のエッセイタイトルの一つです。
河合さん自身も、ウィリアム・ブレイクの以下の言葉を短く言い直したものだと述べています。
他者に善をおこなわんとする者は、微に入り細にわたっておこなわなければならない
ウィリアム・ブレイク
どのような意味か。
例えば、月に一度のコンサルティングであったり、ボランティア活動であったり、あるいは、日本などから発展途上国への援助であったり、時々、その対象をサポートするために、よかれと思って様々なことを言ったりしたりすることがありますが、結果として、”時々行うよかれと思ってやっていること”が、実は、相手の役に立つどころか逆に混乱の原因になることがあります。
日常的に関わる者同士のなかで実に絶妙なバランスが保たれているなかに、傍から見てそれがよくない状態であるとか、もっとよい思いをしてもらおうと思って、非日常的にそこに関わっていく者というのは、えてしてその日常の”絶妙なバランス”を理解できない・しようとしない傾向にあるので、気をつけるほどに気をつけなければ、独善的にすらなってしまう、ということです。
微に入り細にわたるのは本来面倒
例えば、老人施設へのボランティア活動として時々訪問し、入居者さんのお世話をするとして、普段、その施設のスタッフが入居者さんの自立性を保つために、あえて入居者さん本人にしてもらうようにしていることでも、時々行くボランティアが、入居者さんに喜んでもらえるからといってどんどん手を貸してしまうと、いざ日常に戻ったときに、その入居者さんは何もしなくなってしまい、逆に施設のためにも入居者さんのためにもなっていないような場合が考えられます。
”よいことをしてあげているのだ”と信じてやまないでいると、その過程でバランスが崩れ始めたときの不穏な雰囲気を平気で無視してしまいがちになり、いわば独善的な状態になってしまいがちです。
自分がよいと思ってやることが、果たして全体のバランスに対していかような影響を与えているかを、微に入り細にわたって感じ取り、そこでの意見を地道にしっかりと実に繊細に汲みあげながら進んでいく気構えがなければならないように思います。
その繊細な気配りというのは、実に地道なもので、本来面倒なものです。
しかしながら、そこで面倒と思って無視してしまうところに、独善性が出始めているということになります。
自分ではよいと思い、相手に対してそれを行うのであれば、細心の注意を払いながら行う必要があって、細心の注意を払いながら行っていても、相手にとって必ずしもよい影響を与えることができるとは限らないわけで、あくまで”自分がよいと思っているからさせて頂いているのだ”という意識くらいがちょうどよいということなのだと思います。
日常(=継続性)が重要
例えば、月に1度の打合せのなかでのアドバイス・コンサルティングにも同様なことがいえると思うのです。
そこでの日常・そこでの継続的な状態というのは、実に緻密で微妙な暗黙の了解の積み重ねのなかで、絶妙なバランスが形づくられているものです。
その日常(継続的な状態)に時々入っていくような立場である場合には、そのバランスに細心の注意を払って、どこからしらでも小さな軋みが生じていないか常に繊細に気を配りながら、こまめな気配りとケアやフォローをする姿勢が必要であると感じています。