「己を殺して生きる」という言葉があります。
しかし、無理して「己を殺す」と弊害が出ます。そのようなときには、自分の心や状況について考えてみることが必要そうです。
河合隼雄「こころの処方箋」(新潮社)を読んで学んだこと。
「己を殺す」ということ
「己を殺す」という言葉があります。
「己を殺す」ということと、「己に克つ」ということとは、言葉のニュアンスが随分違います。
しかし、この「己を殺す」という考え方、割合、日本では美徳とされる価値観の流れもあり、これに悩まされる人も多い気がします。
少なくとも、「己を殺す」ことと、「己に克つ」ことは必ずしもイコールではなさそうです。
また、己を殺したからといって必ずしも己に克つことに繋がらなさそう、ということも、印象としてある気がします。
「己を殺す」と、弊害が出ることがある
こんなに「己を殺して」頑張っているのに、むしろ周囲には、真反対の印象を与えてしまっている、ということがたまにあります。
いつも我慢し、己を殺していつも周囲に合わせているつもりでいるのに、逆に”あの人は自分勝手だ”、などと言われてしまっていることがあったりで、もうこれ以上どうしていいか分からなくなるときがあります。
そのような場合、心のバランスがうまく取れていないゆえに生じていることが多いものです。
周囲が楽しそうにしていると、なんとなくぽつりと場が白けるようなことを言ってみたり、チームの仕事のここぞという大事なときに早退してしまったり。
なんとなく他人の好意をフイにしてしまったり、他人が困っているときに冷淡になってみたり。
「己を殺して」いると、なんとなく他人が楽にしたいことをしているように見えてしまってふとしたときに嫌味なことを言ってしまったり、ここまで我慢してやっているのだからもうよいだろうとなんとなく不意に休んでしまったりするなぁと思います。
自分のことにばかり目がいってしまって周囲をきちんと見る余裕がなくなり、他人の好意をあえて無視してしまったり、他人が困っていると分かっていつつもなんとなく助けるのが嫌になったり。
己を殺しているつもりでも、やはり”本当の自分らしきところ”から、反動のようなものが出てくるものです。
自分としては、そういった行為はたまにであっていつもは己を殺していても、周囲からすると、普段目立たないだけに、そうした行為が目についてしまい、結果、”自分勝手だ”といわれると。
自分を振り返って考えるタイミングかも
そうしたときは、えてして自分の心に無理しているときが多いものです。
自分が頑張っている割に、自分が思った成果が出ておらず、むしろ周囲へは自分勝手だという印象を与えていると感じるときは、自分の心に無理をしていないか、振り返って考えてみることが必要なようです。
「己を殺す」ことが絶対的によいことでもありませんし、かといって、「己を生かす」ことに偏ると、これまた自分勝手な印象を与えてしまうもので、何がよいなどとは一概にいえないものです。
大事なのは、自分の心に耳を傾けて、無理が生じていないか、時々問いかけていくことのようです。