母方の祖父は、小学生の僕を人として対等に接してくれ、扱ってくれました。
そのことが、強烈に印象に残っており、それからの自分自身に強い影響を与えていると感じます。
夏の祖父との思い出
小学校の頃(中学校に行くと反抗期で行かなくなるのです)、毎年夏、家族で母方の実家に数日泊まりに行くというのが恒例行事でした。
母方の実家は、福岡県みやま市。母方の実家は、みかんや桃の農家をしながら、畳の製造をしている家でした。
農家の実家ですので、自然がたくさんあり、この頃は祖父とよく出かけて、カブトムシや蝉を取りに行っていました。
虫も田舎に行き過ぎると人が少ないからか警戒心が薄く、普通に素手で蝉がつかめるくらいでした。
祖父は孫の自分をとてもかわいがってくれましたし、今も祖父に感謝しています。
対等に話してくれた、扱ってくれたという感覚
もちろん父方の祖父もかわいがってくれたのですが、母方の祖父との思い出で、強烈に印象に残っていることがあります。
それは戦争体験を話してくれたこと。
小学校の頃は、日本の太平洋戦争のことを知ったりする頃で、戦争はどのようなものだったのか、ということを無邪気に聞いていたりしました。
父方の祖父は、「子供に話すことではない。絶対に話さない。」というスタンスでした。
満州などにも行っていて、辛い経験だったようで、僕には絶対に話してくれませんでした。
一方、母方の祖父は、戦争がどのようなものだったのかを尋ねると、とても詳細に教えてくれました。
今から考えると、子供に話すことではない残酷な現実も、包み隠さず、まっすぐに目を見て、しっかりと伝えてくれました。
そのとき聞いても、世の中にはこんなことがあるのか、と戦争のリアルの過酷さに身震いした記憶があります。
しかし、何より自分に強い影響を与えたのは、祖父が、自分を一人前の人間として対等に扱ってくれ、戦争の残酷さであってもきちんと包み隠さずに話してくれた、という記憶・インパクトでした。
その後、中学高校になると反抗期になって家族旅行が嫌になり、母方の実家に行かなくなってしまいます。
高校を卒業するとき、母に半ば無理矢理連れて行かれ、再び母方の実家に行くのですが、そのときも終始、祖父は自分のことを対等に扱ってくれ、一人前の人間として接してくれていました。
母方の実家を去るとき、「都会に行ったら気をつけろよ。女は魔物だからなぁ。」と言われたことが強烈に印象に残っています。
そしてそれが、母方の祖父の自分に対しての最後の言葉となりました。
僕が大学進学で九州を出て、大学卒業後に上京するのですが、僕が上京してすぐの頃に亡くなり、高校卒業後に会う機会を持つことができなかったのです。
女は魔物だ、なんて言葉は実に滑稽で笑える話なのですが、その言葉よりも、社会に出てから特に強烈に印象に残っていることは、その裏にある子供の自分を対等に見てくれ、扱ってくれて、言葉をかけてくれた祖父の「心の強さ」「姿勢」でした。
今につながっている
今思えば、その後に反抗期で行かなくなるのはもったいないことなのですが、大学に入って以降はとにかく生きることに必死でした。辛いことも悔しいこともたくさんありました。
しかし、社会経験を積めば積むほど、社会で辛いことや悔しいことがあればあるほど、上記の母方の祖父から「対等に扱ってくれた経験」が、自分に対して強い力になっていることに気付かされることが多いです。
そのことを、蝉がたくさん鳴く夏、お盆が近づく夏、終戦の日が近づく夏になると、思い出します。